|
平将門が坂東に反乱を起こして「新皇」自称する半世紀ほど前、源定省(みなもとのさだみ)という人がいた。
時廉親王の七男という貴種なのだが、源姓を賜って臣籍降下していた。若き陽成天皇に殿上人として奉仕し、帝に命じられて舞ったこともあり、まあ可もなく不可もない朝廷人として勤めていた。
そのままいけば子孫は適当な官位を与えられて中級貴族となるか、地方に根を張って武門になっただろう。
ところが陽成天皇が摂政藤原基経と衝突して退位に追い込まれた結果、父の時廉親王が擁立され光孝天皇となる。光孝天皇は即位時すでに五十五歳。帝位に就いたものの基経に実験を握られたままの天皇は、治世わずか三年で倒れた。ここで太政大臣になっていた藤原基経が、他の親王をさしおき定省を担ぎ出したのは、彼なりに光孝天皇への引け目があったからかもしれない。天皇の命は旦夕に迫っていたので事は急がれた。源定省はあっという間に親王に復帰して皇太子となり、父帝の崩御と共に即位する。
すなわち宇多天皇で、菅原道真を重用したことで知られている。
逼塞させられていた陽成天皇は「やつは我が家人ではないか」と近臣に憤懣をぶちまけたという。臣下から帝になったのは宇多天皇ただ一人なので陽成天皇の逆ギレは半分わからんでもないが、このことがあまり知られてないのは面白いことである。
もちろん正式な当時の手続を踏んで即位したわけなのだが、後世の人間は宇多天皇の即位の正統性を問題にするどころか、およそ関心を示してすらいないのだ。
桓武天皇の曾孫にして将門の祖父高望王は、この宇多天皇と同世代人であった。
将門が新皇を名乗ったのは非常識にも思えるが、源定省が臣下から帝になったのは当時の貴族なら常識の逸話で、なら俺だってという将門の主張は、後世考えるほど非常識な主張ではなかったのかもしれない。
いずれにせよ、こういう先例は一つ作っちゃったら何とかなるもので、後々役にたったりするのだな(笑)
|
■2010/01/10 (日)
大正天皇の「伝説」 |
大正天皇というと「遠眼鏡事件」ばかり有名だが、明治時代のお雇い外国人グリフィスの著書『ミカド』(岩波文庫)には、大正天皇についてこんな記述がある。
「一部の人々、時に伝統をかつぎまわっている人々にとって、嘉仁はどはずれてデモクラティックに見えた。彼が一般の民衆に同情を示したことについては、たくさんの逸話が残っている。
軍隊の駐屯地となっている町をたずねて兵舎に入っていった時、彼は、兵士たちと一緒にいる間は、普通の兵士の食事をとることを要求した。そしてあらゆる反対に対して「私もまた帝国の兵士なのだ」と答えたという。
ある時、人力車の車夫がめまいに襲われ、動けなくなってしまった。すると皇太子は車からとびおりて、三島まで歩き通した。」
「ある茶屋に行った時のことである。八歳の不具の少女が、部屋の暗がりにひそんでいた。別に他意はなく、「畏れ多いお姿を拝み」たかったのである。嘉仁はこの子についてたずねてから、彼女を呼び出し、茶屋の前の椅子に並んで座って、彼女が生涯忘れられないほど親切な言葉で話をしてやった。」
原武史『大正天皇』を読むと、大正天皇は少々そそっかしいほど気軽な人柄だったようなので、これらはありそうな話に思われる。
執筆当時アメリカにいたグリフィスの情報源は、日本人の知己や日本の新聞だったのだろう。仮に噂レベルの伝聞だったとしても、これは当時の日本の民衆の中に、後年の「遠眼鏡事件」とは違う大正天皇の姿が流布していたことをうかがわせる。
これは想像に過ぎないが、昭和天皇の戦後巡行の際に国民が示した歓迎の中には、忘れられつつあった大正天皇のイメージも関わっていたのかもしれない。
コミケに行ったりして2009年も終わる。
政権交代後の100日間の迷走について私なりに評価すると、戦後生まれ…はっきり言うと団塊世代を中心にしたリベラリズムが、はじめて国家統治の力を試され、そして惨憺たる結果をもたらしたということである。戦後的価値観がその空虚さを露呈したのである。
特筆すべきは、この戦後リベラリズムが無能というだけでなく、旧田中派の流れと野合して一種の全体主義的な色調を帯びつつあることだ。
現在の日米関係や膨れ上がった財政は大戦前夜の相似形を呈しつつある。それは、新たな形の敗戦と焦土に至るのではないか。
あまり嫌な予測はしたくないが、来年がより良き年であるのか。
不安は拭えぬまま、祈ることにする。
小沢一郎という人物であるが、ようするに「角栄の尻尾」なのである。
親分でありながら竹下派旗揚げの際に裏切った田中角栄へのコンプレックスと、湾岸戦争における90億ドル拠出で苛められたアメリカへの怨恨で、この人の言動はだいたい説明できる。
あの大規模な訪中団や来日した副主席への迎合は、角栄の記憶を抜きにできないだろう。日中国交を樹立し、今なお中国の恩人とされる角栄を越えるためには、それ以上の中国の恩人とならねばならないのだ。
同時にこれは、なりふり構わず中国と結ばねばアメリカに潰されるという、過剰な恐怖心の現われでもある。
選挙戦術や最大派閥の形成など、小沢の政治手法が親分だった田中角栄のやり方そのままであることは言うまでもない。だが竹下派の旗揚げに加わった小沢は忠実な弟子とは言えない。
なにより陰気な小沢には、角栄の陽気なカリスマ性が無い。
角栄は時に政敵からすら親しまれたが、小沢は人に離反され続けてきた。
自信家の角栄なら扇子をぱたぱたやりながら笑い飛ばすところを、劣等感の持ち主である小沢は目を剥いて睨みつけるのだ。
コンプレックスにまみれた人間が、そのはけ口を求めて国をどこへ引きずっていくのか。
小沢も日本も不幸なように思う。
「王様は裸だ」と叫んで詐欺師の嘘を暴いた「純真無垢な子供」は、いちやく街の人気者になり、ついに大臣に推されることになりました。
みんなが期待したのは、もちろん発端となった王様の衣装道楽のことです。
新大臣は正直者なので隠蔽や粉飾はしないに違いありません。
服屋や詐欺師から賄賂を取ることもないでしょう。
もちろん新大臣は隠蔽や粉飾はしません。
そもそも、そういう知恵は無いのです。
人からお金をもらっても、ああ得したと思うだけです。
純真無垢な子供なのですから。
前の大臣が王様の服を選ぶときは、自分の汚れた手で触れないように白手袋をはめて丁寧に取扱いました。
新大臣は手袋というものを知りませんでした。好奇心の赴くまま街路のゴミとか犬の糞とか触りまくった手で、王様の絹の衣装を片端から力任せに引っ張っりました。
街の人々が王宮に行ってみると、新大臣は手洟を拭きながら、意気揚々とボロキレの山を作り続けていました。
そして着るものがなくなった素っ裸の王様は、風邪をこじらせてぶるぶる震えながら、目を丸くした各国大使に囲まれていましたとさ。
「朕(ちん)」という言葉がある。
これは天皇の一人称であるが、そもそもは古代中国で一人称として使われ、秦の始皇帝が皇帝のみ使用するよう定めたのに由来している。
つまり詔勅などの公文書における漢文の語法であって、もとより口語ではない。皇太子から天皇に即位したからといって、日常の口調が簡単に切り替わるわけはないのだ。
明治天皇の一人称が「わし」であったことは、仕えた女官が明言している。大正天皇についてはよくわからないが、昭和天皇は戦後の記者会見では「私」を使っている。側近の記録でも「自分」または「私」を使っているが、その中には壁越しの独り言を漏れ聞いたものもある。相手がおらず無意識に口走っているのだから、「自分」や「私」を使うのが昭和天皇の戦前からの自然な口調だったと思われる。
明治以降、天皇の発言に「朕」が用いられている記録は、それ自体が文語体で書かれたものである。つまり記録者がナマの言葉ではなく、文語体に会話を整形しているのだ。特に軍人や官僚は公文書に文語体を使ったこともあり、私的な日記や回想も文語体で記録していることが多い。
こういうことは昭和時代を知る人間にはほぼ自明なのだが、平成生まれの世代はわからない知識かもしれない。
時折「朕」が使われてないことを理由に昭和天皇にまつわる記録の信憑性を否定する人がいるが、これは逆に自分の無知を示すだけなので注意したほうがよいだろう。
すっかり月一更新になってる。
何年も日記書いてると、こういう時期もある。
mixiはちょちょこ書きこんでるけどね。
年頭から母親の怪我にはじまり公私で忙しかったこともあるが、区切りがつかないと日記の筆が気分的に重くなったというのがある。
とりわけ6月以降に取りかかってた某件の原稿だが、どうやら区切りがつくようだ。
というわけでタイトルは明言できないけど、旧ファンの人にはもうすぐですよ。
しかしまー、私個人としては面子がすっかり緑の風の何とやらで笑えるのだが。
大岡昇平『ミンドロ島ふたたび』(中公文庫)を読む。
自身が捕虜となった島を再訪し、かつての戦いを回顧したノンフィクション。
大岡氏の配属された西矢隊の正式名称は、第102師団独立歩兵第359大隊臨時歩兵第1中隊。
名称だけでもう堂々たる最貧部隊だが、案にたがわず中隊長西矢中尉以下の将校下士官は全員臨時召集、兵士の三分の二は三十四、五歳の補充兵。武器は各自に三八小銃と弾丸180発の他は、照星の曲がった捕獲品の重機関銃1丁だけ。
こんな部隊を増援された師団もいい迷惑で、ルソン島南方にあるミンドロ島西半の警備を割当てられるのだが、いくら人口希薄とは言え180人で愛媛県ぐらいの面積を警備しろというのだから、はなから無理な話である。
暇そうな僻地の警備なら中年の素人兵にも勤まるだろうという温情だったのかもしれないが、ゲリラの襲撃で損害出してる間に、ルソン島攻略の前進基地にするため二万の米軍が上陸してくる。抗するすべもなく山中に避退した西矢隊は、大半がマラリアにかかって身動きできぬまま、米軍とゲリラの攻撃で壊滅する。
日本に生還したのは180人中、大岡氏含め捕虜となった21名だけであった。
著者自身、他部隊の現役兵の強さに舌を巻き、自分たちの弱兵ぶりを自嘲しているが『俘虜記』や『レイテ戦記』の抑制された冷徹な記述の裏にある鎮魂の思いがストレートに出ていて泣かせる。
太平の戦記は日本兵の勇戦敢闘の記録だが、著者自身も認めるように劣弱な兵士達が無惨な死に追いやられたのもまた紛うあの戦争の事実である。そのような部隊兵士であるからこそ、また何のために死んでいったのかという問いも深い。
原稿がひとまず落ち着いたら今度は会社の仕事が繁忙に。
うまくいかないものだが不況だからなあ。
昼は仕事、夜はゲームの原稿。
しかしシステムは全然違う斬新なものなのに、面子がまるきりFの同窓会だな。
|