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■2008/10/25 (土)
「鉄路を行く」 第21回 |
更に状況が逼迫して来ると、この種の人物は迷走を始める。
自己の観念のみで構築せる「世界」が崩壊するからだ。
そして、自嘲の笑みを浮かべながら彼自身を含めた全てを台無しにしていく。
何故なら、彼の「世界」に沿わぬ「世界」は不要であるからだ。
これはもう、或る種の自殺、と言って良い。
これは議論の世界でも上記は多く見る事が出来る現象である。
多くの場合、鉛弾を撃ち込まれた獣が血を撒き散らしながら、
それでも自己を苦しめるこれが何かをその最期に至るまで理解できず、
唯々、苦悶の声を上げながら狂走し、やがて静かになるようにである。
但し、これが飽くまで個人に帰結する時、他者に被害を及ぼす事は少ないのが救いである。
然り乍ら、当該人物が特定集団の意思決定の中核に居た場合、状況は極めて悲惨なものとなる。
所謂「小千谷談判」以後の河井継之助にもその傾向が見られる。
特に、尾張藩による新政府との和睦斡旋を蹴った事はその極めて顕著な兆候と言えるだろう。
言うまでも無い事であるが、尾張藩は御三家の一つである。
譜代大名たる長岡藩からすれば主筋に当たり、これの斡旋を受けるのであれば、
不忠の謗りを避け、相応の面目を立てることも出来たであろう。
因みに、幕末に於ける尾張藩の存在と位置付けは誠に興味深いものがある。
同藩には何故か両勢力が戦火を交える直前まで和睦を模索するという傾向があり、
それは第一次長州征伐の際に、幕府と長州藩との和睦斡旋の中心となった事にも見られるからだ。
この性向の生じた理由や、行動原理についても何れ考究してみたく思うが、今は措こう。
兎も角、それによって長州藩は辛うじてその命脈を保ち、正に捲土重来を果たしている。
然し、河井継之助はこれを蹴った。
談判の失敗によって「憤懣を抱いて」いたからだそうである。
勿論、真偽の程は定かではないし、個人の内心は余人の知り得る所ではない。
ただ、その結果として主家に賊軍の汚名を着せ、長岡の街は焼け、有為の人材が数多死ぬ事になった。
長州藩が生かし得た物を、長岡藩は生かし得なかった事の代償として安いか、高いか。
この様な中、河井継之助を斬らんとする者が出てくるのは当然の事と言えた。
その一人が、藩校・崇徳館の造士寮長である酒井貞蔵である。
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■2008/10/24 (金)
「鉄路を行く」 第20回 |
仕方が無いので、そのまま館内を見て回る事にする。
河井継之助の生涯を時系列に追いつつ言動や逸話を紹介するという形式で、
その多くは彼の日記である『塵壺』や、死後に編纂された『河井継之助傳』に多く拠っている。
特に遊学期以降の事柄については、ほぼ後者を踏襲したものとなっているようだ。
故に、これを読んでいれば殊更に目新しい事はないし、改めて読者に縷々紹介するよりは、
勿論、資料批判を加えつつにではあるが、同書を読まれた方が益が多いように思われる。
但し、鵜殿団次郎との読書に関する議論については大いに関心を引かれたので、
本件に関しては若干の見解を述べることをお許し頂ければ幸いである。
これは、本を読む場合に多読をすべきであると鵜殿団次郎が論じた事に対し、
河井継之助が多読よりも精読こそが重要であると駁したという有名な逸話である。
何れかではなく、双方を行うのが最上であるのは言うまでも無い。
しかし、敢えて一方を選ぶとなれば如何という話であろうと思われるので、
その上で考察してみると、結論から言えば私は鵜殿団次郎の言を評価する立場である。
彼の言う、知見の偏りを避ける為にも多読を為さねばならぬというのは誠にその通りで、
一つの事象について、可能な限り全体を把握するにはこれに拠らねばならない。
精読がそれ足りうる為には前提としての知識が必要なのだ。
確かに良書を精読し、その内容を咀嚼して自己の資とする事は重要ではあるが、
それは前提としての多読が無ければ独断的な解釈に陥る危険性を常に孕む。
また、凡そ世の中に特定の事物について、一冊読みさえすれば良いというような、
非常に便利な本は中々有るものではなく、それ故に我々は多読せざるを得ないのである。
勿論、一種のフェティシズムの様に本を買い漁り、これを乱読すれば良い訳ではない。
良書を選り分け、そうして得た大量の情報を咀嚼出来ねば、単に混乱を来すだけである。
詰まる所、前提と言う物が重要なのである。
河井継之助の言動を見るに、自己の賢を恃みとしてこれを無視した物が多いように思う。
それ故に、独善的な判断や行動が多く、これが容れられぬ際には他者を愚物と断ずる。
所謂「小千谷談判」に於いても、交渉の前に会津・桑名藩兵の撤兵という前提を整えないで、
自己が理を説けば、説得が可能であると考えるような過信とも言える心理が垣間見られる。
多角的に事物を捉える訓練を積んでない人は、斯様に対手の心象風景に立つ事が出来ないのだ。
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■2008/10/23 (木)
「鉄路を行く」 第19回 |
長岡市郷土史料館を後にして、河井継之助記念館へ向かう。
何かの福祉施設の様に見えるのは入口が手摺の付いたスロープの先にあるからだろう。
その傍に立つ赤い看板に大きく同館の名前が大きく書いてあるが、余り良い趣味とは思えない。
裏手にある駐車場に車を止める。
館に入ろうとした正にその時、我々は初老の男性とすれ違った。
N氏がこれに目礼をするので、我々も慌てて会釈をした。
男性がそのまま車に乗ってどこかに行ってしまってから、
N氏は溜息をつきながら「彼が稲川明雄氏ですよ」と言った。
「ああ、彼が」とまで言って、私も口を閉じた。
同氏は長岡市立互尊文庫司書を振り出しに、『長岡市史』の編纂を主導し、
遂には同市立中央図書館館長となった人物であり、この河井継之助記念館の館長でもある。
私も事前の調査で彼の著書を読んでおり、同地のmythを知る上で大いに役立った。
特に同氏による第10回「会津と越後を語る会」記念講演を纏めた小冊子である、
『奥羽越列藩同盟軍と長岡藩兵の戦い』(会津と越後を語る会小出大会実行委員会、1996)は、
河井継之助が反攻作戦の際に新政府軍を攪乱せしめる為に民家に火を点けて回らせた事を、
戦術的観点から高く評価している辺り、私には無い視点で非常に興味深いものがあった。
尚、この際、河井継之助は戦が終われば倍にして返すと約したと言われている。
しかし、彼の戦死によってそれは守られず、その為に恨みを抱く者も存在したようだ。
以上、余談であるが参考までに記し置く。
河井継之助記念館に入ると、早速ガトリング砲が置いてある。
但し、先程の長岡市郷土史料館に置かれている物とは大きく異なり、
金色の派手派手しいものとなっている。
また、弾倉も円形ではなく、棒状で弾丸を上から継ぎ足す形式である。
銃身も細身になっており、聊か玩具じみた印象を受けた。
ただ、これは恐らく南北戦争期の同型砲を参考とせるものと思われ、
当時、日本に持ち込まれた武器の多くがその同戦争で使用された物である事を考えれば、
長岡市郷土史料館のものより使用された当時の物に近しい仕様であると言えるだろう。
念の為、同館の職員の方に如何なる史料に基づいて再現されているのかと質問してみたが、
残念ながら「長岡ガトリング砲研究会へ問い合わせて欲しい」との回答であった。
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■2008/02/08 (金)
「鉄路を行く」 第18回 |
一方、これが外務省の訓令を待たずに行われたという話であるとすれば大変な事である。
何故なら、真偽定かならざる時点で駐米大使が個人的な「良心」に基づいて謝罪してしまえば、
全くの検証の無いままに、日本政府が非を認めたという話になってしまからである。
如何に大使とは言え、寧ろ、大使であるが故に斯様な軽挙は避けねばならないのではないか。
或いは「結果として良かった」と言う人も居るかもしれない。
しかし、それもまた甚だ疑問であると言わざるを得ない。
何故なら、パネー号事件発生から外務省の訓令が降りるまでの間、米国は真夜中であるからだ。
現在の様にラジオの深夜番組が広く人気を集めている頃なら兎も角、
この時期にスポンサー付の番組の時間を買い取り、謝罪したとして如何程の人が聞くだろうか。
それ以前に、斯様な時間枠にラジオが放送されていたのかを調べる必要があろう。
更に言えば、正にこの後から米国政府は勿論、新聞各紙も挙って日本政府への攻撃を始めるのであり、
ラジオ放送がこの時期に行われたのだとすれば、効果として米国の世論が沈静化した訳では無かった事になる。
米国政府への謝罪の後にラジオ放送が行われたというのであるなら兎も角、
この時点で「結果として良かった」物として評し得るものでは無いと思うのだが、如何。
斯様な事を同行の二氏に語りつつ、順路に従って階段を下りる。
降り立った一階には民具が多く展示されており、改めて雪国に来た事を認識した。
勿論、蓑や樏の様な一般的な道具については見た事があった。
然り乍ら、赤く塗られ、装飾を施された橇等は初めての物であり、
更に壁面に貼られた資料から、東北の各地域によって意匠が異なる事が分かった。
また、「ねこつぐら」等には興味を強く引かれたのであった。
これは猫稚座の事で、農繁期に乳幼児を入れて置く籠である「稚座」を猫に援用した物である。
近年、都市部等でも愛猫の寝床として広く知られる様になった。
斯く言う私も最近になって知ったのであるが、これが存外歴史の古いものであるらしく、
既に戦前には新潟の各地方で作られていたとの話もあるようだ。
但し、ここで展示されていた物は昭和四十七年(1972)に収蔵されたものであり、
その意味では比較的新しい物であると言えるかも知れない。
斯く、見るべき物は見つとして、我々は長岡市郷土資料館を後にする事にしたのである。
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■2008/02/07 (木)
「鉄路を行く」 第17回 |
「外交・文学で活躍した人々」として斉藤博が挙げられているのを見る。
昭和初期に駐米大使となり、パネー号事件等の処理に辣腕を振るったとされる人物である。
それ自体に異論は無いのであるが、彼が語られる際に必ず付いて回る逸話が有る。
同事件に於いて、彼が独断でラジオを通じて米国民に謝罪したとされるものであり、
杉原千畝の一件と並んで戦前に於ける外交美談として夙に知られている。
ただ、私は常々この話の信憑性に疑問を抱いている。
何故なら、知る限りに於いてパネー号事件に対する外務省の対応は以下の通りであるからだ。
1937
12/12
未明 パネー号事件発生。
12/13
11:00 米国の上海総領事からパネー号の所在に関する問い合わせを受け、
11:00 本田駐在武官から上海総領事への事件発生連絡。
15:00 広田外相、グルー大使へ謝罪。同時に斉藤博駐米大使へハル国務長官への謝罪を訓令。
12/14
03:00 斉藤博駐米大使、ハル国務長官と会見。
以上は全て日本標準時に基づいて記述している。
さて、第一報に接してから四時間後には既に外相が米国駐日大使との面談を行っている所を見ると、
外務省は極めて迅速に謝罪を行うという方針を決定したようである。
そこには、当時の国際情勢に鑑み、日米関係の更なる悪化を未然に防がんとする意思が見える。
これを果断に行った広田弘毅外相が後に「戦犯」として裁かれ、
刑場の露と消えていったのは誠に皮肉な事と言う他無い。
それは措くとして、斎藤博大使である。
恐らく、この説明は犬養道子『ある歴史の娘』(中央公論社、1980)を根拠の一つにしているのであろうが、
同著によれば、同大使はその報に接するや「独断ですぐさま」米国のラジオの、
更にスポンサー付の番組の時間を買い取り、自己の口から謝罪したらしい。
また、その行為は「しきたりに縛られきった」当時の外務省を驚かせたそうである。
これは誠に奇妙な話という他無い。
先ず、上記の行為が外務省の米国政府へ謝罪せよとの訓令の後なのであれば、
ラジオ出演自体が「独断」であったにしても、既定の方針に沿った行為であり、
外務省としては別段に驚くべき事では無かったのではと思うのである。
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■2008/02/06 (水)
「鉄路を行く」 第16回 |
この国漢学校の医学局、その西洋医学教授試補として赴任したのが、
後に長岡赤十字病院長となった梛野直である。
古志郡堀金村に生まれ、長岡藩医・梛野如秀の養子となって後、
大阪の適塾・長崎の精得館に学んだ人物で、正に好適な人材と言えよう。
北越戦争の際に際しては藩医として従軍しているようであるが、
以後は三島億二郎等と「蘭布会」の常議員となり、長岡の復興に尽力している。
「蘭布会」は岸宇吉が設けた一種のサロンであるらしい。
発端は職工の賃銭の設定方法に関して小林虎三郎に意見を求めた事に始まるという。
それが北越戦争で荒廃した長岡の復興について意見を交わす場となり、
更にその産業発展について企図する際の中心的組織となる。
その一方で一部の資本家による富の寡占に繋がったとの批判もあるが、
戦後復興に於いては計画的な経済政策に基づく資本の運用が最も大事で、
状況や時代性を考慮すれば妥当な批判であるとは思えない。
さて、この梛野直が生まれたのと同じ年、同じ古志郡の福井村に生を得たのが、
同時期に済世学舎を創設した長谷川泰である。
これは現在の日本医科大学の前身であり、
かの野口英世も一時期在籍していた事で夙に知られている。
彼の父は漢方医・長谷川宗済であるので、その下で家業として医学を学んだようであるが、
その傍ら、元蕃書調所教授である鵜殿団次郎の薫陶を受けている。
また、佐藤泰然の私塾である佐倉順天堂の門下生となっているのが面白い。
正に旧幕府系の人材の影響を色濃く受けているのである。
彼が北越戦争に際しては河井継之助の下で戦い、
その後に一貫して官製医学を批判する立場を取ったのも宜なる哉と言うものだ。
勿論、その一方で彼もまた長岡の発展に寄与している。
長岡市の上下水道整備に関して、公衆衛生の観点から早くよりその必要性を指摘しており、
その結果、これが全国でも逸早く導入される事になったのである。
尚、この二人、死去した年まで同じである。
その故にか、既に数多存在する先行研究や人物紹介の中で比較される事が多いようである。
何れ、この両名に関しては詳細に調査せねばならぬかもしれない。
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■2008/02/05 (火)
「鉄路を行く」 第15回 |
今度は一転、小林虎三郎に関する展示である。
北越戦争の戦火が長岡を焼き払った後、その復興に取り組んだ人物だ。
近年、再び「米百俵」の逸話が流布された事もあり、脚光を浴びた人物だが、
これ自体は戦前に山本有三が戯曲化している事ある程に古くから知られてはいた話である。
当初、国漢学校は城下にある昌福寺に仮校舎が置かれた。
しかし、これが手狭となった為、山本帯刀の屋敷跡に新築移転される事となった。
また、この折に洋学局・医学局が置かれたと言われている。
尚、それは三根山藩より米百俵が届いたとされる時期より早くに着手されており、
それによって直接的に国漢学校が設立された訳ではない。
「用意していた裏金を使う為の方便だったという話もありますよ」と、N氏。
史料上これを確認するのは極めて困難であろうと思われるが、
実際、国漢学校の移転費用は総額で三千両必要であったとの指摘があり、
百俵の米を売却しても、得られるのは数百両であるのだから全く足りないのである。
これらの事から考えるに、北越戦争で蕩尽された訳ではなく、
長岡藩には何等かの資金が温存されていたであろう事は推測出来る。
恐らく、N氏が聞いた話はこの辺りに根差すものではないだろうか。
因みに、河井継之助が購入したとされるガトリング砲の価格については、
諸説あるが、一門が三千両程であったと言われている。
勿論、別次元の話であるから単純に比較するべきではないのであるが、
同じ三千両の使い道まで、両者は好対照を為しているように見えた。
尚、小林虎三郎の事跡に関しては、外甥に当たる小金井権三郎・良精らが編集した彼の遺稿集である、
『求志洞遺稿』所収の小金井権三郎「小林寒翠翁略伝」に詳しい。
然り乍ら、不思議とこれに「米百俵」の逸話は収録されていないのである。
何等かの理由でこれが敢えて除外されたのか、
或いはこの時点では知られざる逸話であったのか分からないが、
その初出は坂本保富『米百俵の歴史学』(学文社、2006)に拠れば、
北越新報社編『長岡教育史料』(北越新報社、1917)であるらしい。
故に、恐らくは小林虎三郎の逸話としてこれが成立し、
広く流布されるようになったのは明治末期から大正初期ではないかと思われる。
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■2008/02/05 (火)
「鉄路を行く」 第14回 |
斯く言えば、或いは左様な状況に追い込んだのは新政府ではないかという意見もあるかも知れぬ。
就中、所謂「小千谷談判」の交渉相手であった軍監・岩村精一郎の行動を不明と断じ、
その人間性に至るまで否定する事を以ってそれを補強する向きもある事は知っている。
しかし、長岡藩の中立性を侵害していたのは会津・桑名・米沢の諸藩も同じだ。
既に新政府側と交戦状態に入っているこれらの勢力を排除する事もせず、
「中立である、交渉で撤退させる」と言っても誰がこれを容れるであろうか。
更に言えば、世上評されるが如く、格別に河井継之助が卓越した人物であるとして、
これを惜しむ余り、一軍監の身に過ぎぬ岩村精一郎が首脳部に対して運動を行い、
或いは計画を変更せしめるなど、軍律に照らして逆に有ってはならぬ事ではあるまいか。
またこの際、黒田清隆であれば柔軟な対応をしたかもしれないという評価が根強いようだが、
彼が敵対者に対して温和な対応を行った事例は何れも降伏の後だ。
端的に言えば、既に無危険化されている者に対する処遇なのであり、
河井継之助がその決心を翻し、一心不乱に新政府に対する恭順を申し立てでもしない限りは、
少なくとも所謂「小千谷談判」の際に、一部の人々が夢想する様な状況になったとは到底思えない。
また、その際には「武装中立」などという話は雲散霧消する事になる。
何れにせよ、中立という選択を安易に礼賛すべきではない。
中立を宣言する事と、それを貫く事の間には大きな懸隔が存在し、
また、その為には実に多くの準備と対価が要求されるからである。
巷間、中立者となる事で双方と平和的な関係を築けるものと考えられ勝ちだが、
それは大きな間違いであると言わなければならぬ。
何故ならば、それは同時に必要によっては双方と交戦し、
勝利し得る力を持たねば成立するものではないからである。
中立とは宣言と同時に成立する物、或いはされるべきものなのではない。
自らの意思で行ったそれに従って、中立者たる事を紛争当事者である双方に認めさせて初めて成り立つ。
結局、力無き者がそれ故に局外に立たんとして中立を宣言する事は無意味である以上に、有害である。
況して、これを以って勝者の「悪辣」を詰り、敗者の「道徳性」を主張する類に於いては笑止と言う他無い。
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■2008/02/04 (月)
「鉄路を行く」 第13回 |
走り廊下を抜けると天守閣の二階に出た。
時は幕末、長岡藩は動乱の渦中に投ぜられるのだが、
此処では主に新政府に抵抗した人々の遺品等が展示されている。
その中でも特に大きく扱われているのが、
北越戦争の折に長岡藩の軍事総督を務めた河井継之助である。
内には当時最新鋭の兵器であるガトリング砲を買い求める等の兵制改革を行い、
外には新政府に対して「武装中立」を唱えて抵抗したとされる人物である。
一方、「米百俵」の逸話で有名な小林虎三郎は北越戦争に際しては恭順を唱えており、
開戦以降もそれを貫いて従軍していない事もあって、好対照を為すと見られる事が多い。
北越戦争に関しては何れ述べる予定であるが、今は措く。
その前提として先ず、「中立」という事柄について考えてみたい。
何故ならば、これは河井継之助が評価される時に必ずと言って良い程に用いられるからだ。
幕末の動乱に際し、武装中立を目指したが志ならず戦死したというのである。
また、この評価の面白い所は平和主義的な観点からの礼賛をも可能であるという点に他ならない。
因みに戦前に於いてすら、徳富蘇峰が長岡公会堂に於いて行った講演の中で既にその評価を行っており、
「御当地に於ける河井継之助先生などは、武力解決に反対して、平和解決の論者であった」とまで言っている。
そして、河井継之助はその余りの先進性の為に時代に先駆け過ぎたのだという評価に帰結するのだ。
甚だしきに至っては、長岡藩は一公国として独立せんと企図したとまで飛躍したものさえある。
然り乍ら、これは当時で言う所の「万国公法」に照らした所の中立では無く、
更には所謂「小千谷談判」の後に奥羽越列藩同盟に参加している事からも分かるように、
私はこれを後世になって半ば強引に付与された評価なのではないかと思われる。
百歩譲って中立を企図したとしても、それは全く貫徹されてはいないのである。
また、それを否定したのは、当初存在したと言われる中立の決心を変更し、
奥羽越列藩同盟への参加を求めた、河井継之助自身である事を忘れてはならない。
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■2008/02/03 (日)
「鉄路を行く」 第12回 |
閑話休題、この時代に藩校・崇徳館が開校せられた事は既述の通りである。
そこでは先ず四書五経や唐詩選、文選等を学び、然る後に諸学に進むという方式であったという。
ここで敢えて「諸学」と言ったのは、同校が必ずしも当時の官学である朱子学、
或いは藩の定めた特定の学問のみが教授された訳では無いからである。
中でも、古文辞学派の秋山景山、古義学派の伊藤東岸等が招聘されている事に注目したい。
これらの二派は何れも朱子学の解釈を批判し、古典回帰と実証主義を目指している。
それは儒学に関する書物をテキストとしては用いながらも、これを相対化する事に他ならぬ。
この事は一般的に認識されている教条主義的な「儒教」の世界と対極に位置づけられるだろう。
端的に言えば、飽くまで「儒学」という学問足らんと志向したという事である。
近年の壮士諸君の中での一種の流行として、「儒」と見れば無条件に毛嫌いし、
これを批判する事を以って、愛国者の自己証明とするが如きを良く見る。
また、同種の行為はキリスト教に対する評価にも見る事が出来るが、
恐らくこれは或る人々の根本思想と思われる物を否定し、その「非道徳性」を詰る事で、
それを以って自己の在り方を肯定せんとする鼠賊の如き発想に根ざす物であろう。
しかし、肯定するも否定するも、これを絶対化するという意味では全く同じ陥穽に落ちているのである。
若し私が特定の思想を奉じる集団と対峙せねばならないのだとしたら、
その思想そのものを徒に否定するような悪手は打たない。
寧ろ、それを知悉した上で、それに照らして彼等の実行動や如何とやるであろう。
「十字架上の日本」演説等は正にそれなのであるが、また脇道に逸れるので止す。
とまれ、知に於いて大切な事は相対化なのであって絶対化ではない。
その膨大な積み重ねの上にのみ、普遍性が花開くのである。
そして、既に我々の先人は数百年前からこの事を知っており、かつ実践しているのだ。
巷間、日本の近代化の淵源を江戸期に求める言説が多いが、
斯様な学問の在り方こそが、その一つではあるまいか。
そして崇徳館に於ける教育もまた、その証左の一つと言えるだろう。
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