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■2010/03/17 (水)
個人の利益は集団の利益にまさる |
先走りすぎたので話を戻そう。
つっても、誰かがリンク貼ったのな。
ボクは実写児童ポルノも表現だと思います派。レイプだろうと表現と主張したなら表現です派。
以前、人間の死体を樹脂で固めて展示する、人体展というのが流行してて。たいがい、ふざけたポーズだったらしいが(みてない)。
たとえば、現代アートやってる連中からすれば、あーゆー人体素材を使ったアートとか、やってみたいんじゃねえかな。医学とか科学とかいう集団利益のお題目のときだけ人間の死体を使っていいとかズルイじゃねえか、だったら個人の自己表現のために人間の死体を素材にしたっていいだろ。手垢まみれの古典ゴシック小説ですか、みたいな古臭い話だが、弟や弟の仲間が自分の排泄物や体毛で自称アート、とか学校でやってたの見ると素朴に需要あるよなと思う。ただし、表現に無制限の法的自由があるとも思わねえけどなー、というオチはつけとくが。
ただ、オレサマ戦争に参加したので戦場の実体験を作品にしました、とゆーよーな映画でウケをとるのも、他人の生命でゲージュツきどってんじゃねえか、銀河鉄道999の機械伯爵とドコが違うんだよ、というのは最低限言わせろ。
で。
表現うんぬんは、今のタイミングで問われるべき話じゃないと思いますよ。
この経費削減のご時勢、官僚の数を無駄に増やす類の規制拡大話を指摘し排除しろ、という話になりなさいな。
どうでもいい規制は緩和されるべき。
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■2010/03/16 (火)
社会的である個人という連中 |
言論弾圧といったって、じゃあ現在、言いたいことを自由に言えるかといえば、見えない世間様の圧力で、ろくすっぽ言いたいこともいえないのが現実だ。良識的態度、政治的正しさとやらで、ある程度まで社会的な行動規範を獲得してしまえば、奥歯にモノの挟まった発言に終始するしかない。他人を名指しでDISるのはお行儀がよくない、大卒予定者との面接で非定型句を駆使した俳句を披露するのは自己満足度が過ぎやしないかよく自重して考えろ、といった条項のひとつ下に、非実在青少年の性描写は控えめに、という一文が付け加えられるだけのこと。慣れればそれで終わる。それに慣れたくないというのなら、せいぜい、せせこましく反逆してみせればいい。何の意味もないが。
何もかもを全部まとめて「言論の自由」の中に押し込めてしまうのは、エロゲのユーザーなり作り手なりが、自分の手で腑分けることを望まない側面も大きいのではないか。腑分けた結果、細分化され効率化されればコミュニティも市場も散逸していき、再編を免れ得ない。マルチエンディングの4つの結末のそれぞれに分かれるなら、それぞれが1/4の市場になる。ならば、お上からへこまされて全体の市場の2割減程度におさまるほうが、まだ、うまみが残るではないか。50万人のコミケが40万人になるのと、12万人の4つの即売会に分裂するのとでは、40万人が集まるほうを選択するだろう。その際、10万人の弾かれた方々(もちろん、もっと細かく散逸することを宿命付けられた人たちだ)には、泥を被ってもらえばよろしい。
俺には、いま、「表現の自由」を標榜し、ただそれだけを念仏教のごとく唱えている連中が、10万人を切り捨てる決断を暗黙のうちに下した40万人に見える。もちろん、児童保護を標榜し数十億人の理性とやらを代表する人たちがバーチャルポルノの愛好者を切り捨てる決断を下したのと、全く同じ入れ子の構造だ。「児童保護」の題目が「表現の自由」に入れ替わっただけ。児童保護の目的から大きく外れているじゃないかという指摘にしたところで、ロリの性行為を書くのが「表現の自由」の主目的なのか? というズレと同じ。エロマンガやエロゲの市場保護のために動くのなら、その労力をもっと他の、深刻な人権問題の報道に向けるべきじゃないのか、となる。
いったい、あの連中は「表現の自由」なる言葉を個人の言葉として発しているのだろうか。ただ言わされているだけじゃないのか。そのような言葉は、一体、表現や言論の名に値するのだろうか?
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■2010/03/16 (火)
ゲーム、という不幸 |
ゲームを定義するのは難しい。ゲームを見出すのは難しい。何だってゲームといえるし、何だって遊びと言える。
だがそこで開き直った場合、表現の自由なるものはゲームに適用可能なのか? あっさりとゲーム表現と言ってしまうけれども、では一体、どのような部分を指して表現といえるのか、そのあたりは曖昧なままだ。それなのに表現の自由なんて主張できるのか? それでは、中身のない箱を中身があるように振舞っているだけと言われても、反論はできない。
そのへんの問いが、丸ごと抜け落ちてる。
例えば、分岐していくシナリオにしても幾つもの結末のうち、それぞれのプレイヤーがそれぞれに好みの結末にたどり着く。一つの結末は文学的であると評価され、一つの結末はポルノとして性欲解消に役立ち、一つの結末は二次創作に向いた幅を持たせた緩やかな展開で、一つの結末は判りやすい勧善懲悪の図式にはめ込まれている。そういうふうに、互いの方向性を混ぜ合わせることなく同居させられるのが、マルチシナリオの強みだろう。あるいは、幾つもの結末のうち、客受けするものも悪いものも、当たりもハズレも、どちらがいいか決めないで一緒に突っ込んでおけば、客が自分で好みの展開を見出して評価してくれる。(「数撃てば当たる」が、最大の強みなのかもしれない)
いったい、どの部分が表現なのか。全てが一体となって表現たりえているというなら、プレイヤーは全てが一体となったような受け止め方をしているのか? どちらかといえば、特定の自分の気に入った結末を真のエンディングとみなして、そこだけを深読みする(あるいは全体の構成が気に入らなくても一部の表現手法に快を求めるのも日常的に流通している)のではないのか。それ以外の結末は、彼にとって最終的に不要となるだろう。すると上の例では四分の三の結末においてポルノ描写がなくても困らない。ポルノ描写の有無は、他の展開においては影響を与えないのだから。
小説にしたところで、いくら「前後の文脈や全体の構成からみても、これは<わいせつ>ではない」などと述べたところで、では実際に読者全員が前後の文脈や全体の構成に注意を払うかといえばそんなことはない。というよりも、チャタレイ夫人の一部を抜き出してわいせつとみなし規制をかけた当時の当局者たちもまた、大きな意味では読者の一人に他ならない。彼らの「読解」が大衆より劣っており採るに値しないとみなせるほど、規制反対者が不平等主義者というわけでもない。
エロゲは、他のエロジャンル、例えば官能小説やエロマンガとは微妙に空気が違っていて。前にjudgement1999とゆー人がね、90年代エロゲ全盛期てのはPC98筆頭に何十万もする機械を使っているという時点で、既にして「ある程度以上の金を持ってる中流層以上」じゃないとエロゲはできないのであって、そのような文化圏だ、という趣旨のことを述べていてですね。
や、さほど金がない家庭の子でも、やっぱコンピューターというコトバの輝きで多少無理してでも買うって割とあるよ(それで場違いにも上流階級な人たちのサロンたるエロゲオタ文化圏に紛れ込んでしまった結果、生き方を見誤って閉塞に陥ってく可能性は否定しない。つか、実例っぽいのも見かけるし)、とは思う。おいらの386機は後輩から下取り価格で譲ってもらった7万円ぐらいなもんだったし。中古でギリギリ追っかけるなら、なんとか捻出できなくもない。てのはさておき、そこまで金持ちばっかじゃないにしても、普通のエロ物件と単純に比較は出来ないのは確かで。
個人的には、それは「価格帯」というよりか、コンピューターゲームという「時代の最先端」だった代物にまつわるプライド、のようなものじゃないかと思っている。
たとえば、エロゲの業界団体や流通が微妙に中途半端つーかアッサリ規制を受け入れる感覚の根拠は、動く制作費や制作期間・販売形式の問題もさることながら「エロが多少規制されても、ゲーム性やシナリオ、技術部分というのもPCエロゲの魅力なのだから/俺たちの持ってる能力なのだから大丈夫」のような、逃げる余地、言い訳できる場所が、彼ら(作り手もユーザーも含めた文化圏としての)の脳内に残されていた、そのあたりに出自が発見できるのではないか。
エロゲは総合芸術、などという正気を疑うような物言い(総合じゃない芸術って一体なんだ。今どきアートと名がつくもので越境や組み合わせに当てはまらない代物なんかないだろうし、音楽と絵と文を組み合わせてみました程度の意味合いだとしたら、傲慢にもほどがある。音楽や絵を何だと思ってるんだ?)の人が複数いるというのも、そうした、口には出さないけども心の片隅においてある安心の種〜エロゲには様々な魅力があるからエロが切られても大丈夫〜に寄りかかってるのではないか。
さらに言えば、そのエロゲの根拠のない自信の出所はコンシューマー業界でのCERO規制で見られるような、「ゲーム」という代物の扱い方に酷似している気がする。「ゲーム」であるがゆえにエロゲはああも能天気に構えていられたんじゃないか。
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■2010/03/14 (日)
これはひどいタグをつけたくなる |
美少女ゲーム立ち絵演出の問題点
http://togetter.com/li/8546
いや、発言ゆってる本人たちからすれば、単なる愚痴の羅列でしかないので、それにタイトルつけてトゲタでまとめてしまったこと及びそれにブクマコメをつけることの問題点とゆーべきか。
なんつーか。方向性の見えなさ具合がね。ここまでグダグダになってんだなあ、と再確認しましたという話。
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http://f44.aaa.livedoor.jp/~psyzans/Kura/Popcom/Popcom_1.html
RPG論争とゆーことでナツカシス。
まぁ、いつの時代も、どこの場所でも、余計な論争を巻き起こす言葉である。
なんつーか、今のRPGの安定状況というのは、一方には20年以上ずーとオープンな場で「テーブルトーク」のRPGをプレイし続けてきた人たちがいて、彼らはなんつーか人格者と形容したくなるような人たち多めだと思うのだが、そのような経験を積んだ人徳の持ち主たちが場を維持し続けてくれてるという部分に、けっこうな部分を負っているんじゃないかと思っていたりする。
いや、今でもタチの悪い人もいるんだろうけどさ。出入り禁止・議論喧嘩にブラックメール、陰口のたたきあいに収まらず対立分裂迷走が拭いがたい側面だったRPGとゆー修羅の世界の印象からすると、今どきはずいぶんと平穏に見える。もはや外部者なんで本当のとこは判らんけどね。
昔、ゲームのコンベション会場で、馴れ馴れしい人は要注意マークとか身構えてて。顔見知りとプレイできないから近づいてきてんじゃないか、みたいな警戒が半分あって、一方で折角のオープンな場なんだから知らない人と交流しなきゃいけんなー、というジレンマもあったり。
あたしがいちばん「やたら馴れ馴れしく話しかけてくる要注意人物」だ、とゆー話はナシの方向で。いや本当に。
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■2010/03/13 (土)
いいかげん基地外じみてきたのでつっこんでみる |
いや、キリが無いけど。
>「RPG」ってまるで一つのアーキタイプみたいに言われているけど、実のところ一般的なRPGは「戦闘」と「レベル上げ」という二つのゲームが組み合わせられたものだ。どちらか片方だけでもゲームとしては成立するのに、セットでなければいけないみたいに思われている。
http://twitter.com/catfist/status/10402684454
レベル上げだけでゲームが成立するて。ナニゆってんだこいつ、以外のなにものでもないのだが、あんまり酷いので(いつも酷いのだが)晒してみる。
いや、意図した狂気、狙ったスレスレ発言、突破することを目指した暴言、とゆーのは、そら、一定の効力はあるよ? 一瞬で消え去る幻影にすぎないにしてもさ。
でも、暴言でも狂気でもスレスレでもないところを狙ってバカであることだけを目指して、どうするね。
や。毎度、俺らこうやって歳を積み重ねて老害になってくんだなあ、というのを切実に染み入らせてくる人なので。
読まなきゃいいんだけどさ。
どこいっても疲れちゃうね。
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「レベル上げ『のみ』」でゲームが成立するかどうかなんて、ちっと考えればすぐ判るだろうから反論も批判もしねえのだが(バカにはする)、そうなあ。
こゆ人たちが大勢いるのが世の中なのだな、そして俺もまたその一人に他ならない、という、ただそれだけが重くのしかかってきます。
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ああ、ホントにナニも知らない人なのね。
あーるぴーじー、というのは、とても面倒なジャンルで。
テーブルトーク、と今だといわれるRPGでも、論争とか議論とか剃刀の送りあいとか、連綿と続いてて。ネットバトルも、いまだに絶えない。
んで、コンピューターのRPGというのも、そういうめんどくさいジャンルから色々と借りてるのもあって、極単純にWIZとUltima足したようなジャンルと捉えるのにしても、そんな、ろくすっぽな検証もしてない話で押しとおるもんじゃねえだろ。
で。レベルアップする楽しみというのは、WIZで水子を作り続ける話かな? HPと能力値がきっちりMAXまで上がるために、レベルアップのたびにリセットしまくる行為、でオッケー? そゆ快楽ってドラクエにあったっけ?
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あるいは「金を貯めて強い武器を買う」のも大事なゲームの側面だろう、てのもあるな。マッピングというゲーム側面、謎解きのためにメモを溜め込んでく、実際に頭を捻るゲーム側面てのもある。なんて素朴すぎる指摘だ。
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■2010/03/12 (金)
非実在青少年の話がもりあがってきた |
海外の誤解という話がいろいろあって面白いのだが、レイプレイみたいな3DCGを日本で流通してるバーチャルポルノの主流とみなす(…ああいかにも頷いてしまうわ)とゆー態度から外圧気味に翻訳してって非実在青少年になるわけね。んで一度日本に上陸して翻訳されてしまえば、全部が対象になるだろう、とゆー。
3D技術なんぞ、やめときゃよかったのにねえ。そうすりゃ海外の大概の人たちからすれば、全く読解不能なロリコン二次絵と袖ふれあう機会も生じなかったろうに。まぁ、こうなった以上は突き進んでいくしかないだろうけど。
…海外の誤解、とゆー話で言えば、動物化するポストモダンの英訳ってどうなってたっけ。「ゲーム的リアリズムの誕生」を翻訳したのを向こうの児童ポルノ規制論者に読ませれば、かなり、彼らに都合のいい部分をピックアップできるだろーに。単純に「リアリズム」というコトバを向こうの人が読みとっただけでも、非現実の青少年を現実のようにみなすコードが日本文化では成立してる、と読めるんじゃねえかなー。
ゲームのメタ的な要素にプレイヤーが自己を投影し、あるいは居場所を見出し、あるいは主人公の言動をメタ的なコードを通じて引き受けるような態度とゆーのは、消極的に、こーゆー「現実の問題」とのすりあわせを避けてくるような位置づけに収まってるわけだけども。
現実の法や社会が、こうやってバーチャルかつ、いくらでも複製拡大可能な存在とゆー概念を実際の運用に取り込んだらどうなるかについては、エスエフでさんざ扱ってきたはず、だと思うんだけど、あらためて今のような状況を扱ってるのって、どのへんの作品になるのか。
虚構と現実とゆーお題目の弄び方が、片手落ちにすぎて、ワンパな形式でしか虚構とゆーコトバを扱ってないとゆーことになってなきゃいいんだけど。なんか、反応がすげえワンパっぽいので(いつまでたっても、焚書禁書弾圧ネタでしか盛り上がらない)、サイバーサイバーつった果て、いったいナニを語ってたんだろうな、とゆーのは、彼らに聴いてみたい。
わりと、どうでもいいよ(俺らモトモト現実に居場所ないし現実のことなんか関係ねー)、という無関心の形でしか返事はかえってこないんじゃないかと想像するのだけど。さて。
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■2010/03/09 (火)
んで、キャラクターとは何かという本をよむ |
あいかわらず、ゴリゴリ調べているわりに控えめ度合いが他の人の本の数倍すぎて、わけがわからない人だ。
なんつーか、彼らの議論について言うなら、萌え4コマについてはその極度な定型性のゆえに、どちらかといえば文章オンリーの文芸作品の文法で読み込んだほうが読みこみやすいような代物になってて、なのでメディアミックスで4コマの形式から切り離されるときに、ようやく彼らが問題とするようなキャラクターが生じるんじゃねえかなー、というぐらいに、4コマに出てる最中にキャラクタが問題になってるようには見えない。そゆ、ストーリーマンガのそのへんで見られるレベルに行動や言葉の方向性がハッキリしてるキャラクターが見えねえようなのを指して、彼らはキャラクターじゃないキャラなのだ、と言いたかったのかもしれないのだが、メディアに親しんでいくと、そのへんはすぐクリアされてしまうので、キャラとキャラクターを分けるという議論はつくづく実用的ではない。前にも書いたが、ストーリーマンガの特殊性の中でのみ適用されうる概念だと思う。んで、今の4コマの評価は、なまじっか単行本レベルで見るとストーリーらしきものが進行してしまっているので、曖昧になってんじゃねえか。
台詞を読んでも読まなくても女の子がかわいいからそれでいいよね、という感覚は、時間経過を極限までないようにして…みたいな話と、どこかでぶつかるんだろうか。ぶつからないような気がする。
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■2010/03/07 (日)
マンガタイムきららを購入する |
いわゆる「萌え4コマ雑誌」を買うのは初めて。
基本的には、こーゆータイプの萌えキャラな可愛い顔が少数派で飢えていた時代に子供時代を過ごしまして、ちょっと可愛い絵だと話がつまらなかったり無駄にパンチラに持っていかれたりして、とてもとても、可愛い女の子が見たかった思春期でした。
ちなみに、いわゆる吾妻ひでおタイプの顔つきは、バタくさく見えてイヤでした。実質小遣い額が月に2千円ぐらいで、カリ城のビデオを買う為に19800円を必死で貯めていたあの頃、竹本泉のあんみつ姫の単行本を買い控えてしまって数年後に後悔することになるあの頃、書泉ブックマートの2階で、今はまるで絵柄の変わってしまった某るりあ先生の単行本に書かれたメガネキャラの表紙絵を、下校時に毎日立ち寄って眺めていたのを覚えています。あの直線が僕の女神でした。あの直線。はぁ。
さておき、時代は変わりました。
今は、かわいい女の子がたくさん溢れている時代です。エロい絵も清純な絵も、なんだって、僕の好きな傾向の女の子たちの顔で溢れている、そんな時代になりました。
んで萌え4コマの時代です。要するに、コミケで可愛い絵柄の書けそうな人を見つけてきて、ストーリーも画面レイアウトもコマ割も必要ないから見開き16コマ全部に可愛い女の子の顔を出すようにしとけ、という代物です。
ぶっちゃけます。極楽です。
どのページをめくっても女の子がかわいい。シナリオなんて要りません。台詞を読む必要もありません。なんつーか、ときどき、忘れた頃に、気を紛らわせる程度に台詞とストーリーがくっついてればいい。女の子がかわいいのですから。
むしろ、ストーリーやネタを考えてしまって、進行の都合上コマから女の子のかわいらしい顔が消えてしまうような事態は不要だと思いました。
日常とは、なんでしょうか。
日常とは、4コマのコマのアングルから、女の子のかわいい顔が外されることがない、そのような状態を指すのだと言えます。東鳩の神岸あかりとの日常とは、まさにそのようにして画面に常に女の子が出ずっぱりであるための要請でした。間違っても、街中の風景や文物、大気や空や大地などといったものにフォーカスをあてるものではありません。
見開き16コマ全部女の子がかわいい、ということ。
ただそれだけが素晴らしいのです。
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■2010/03/07 (日)
ブログっぽい政治的主張 |
少なくともメタとかループとか二次元の存在は三次元に搾取されてるとかそーゆーことを話す人たちの立場からすると、非実在青少年を法律で定義する流れは歓迎すべきだ。
むしろ、そのような非実在青少年を定義しうる思想が、ときメモというサイバースペースの発生から20年、順調に育まれてきた、その成果がついに実を結んだ、と考えずしてどうする。
二次元の女の子は大切にされないといけないという共通コンセンサスは、既に確立している。結婚式をあげる人もいるし、法の適用外であっても非実在の女性との実質的な婚姻状態「俺の嫁」を主張するひとは数え切れないほどだ。ならば、そうした実質に、法整備を追いつかせようとする動きはあってしかるべきだろう。権利を主張したとみなしうるほど、実質を充足させていった。権利には義務が伴う。ならば、非実在青少年の定義は、むしろ必然だ。
どうも中途半端な反応ばっかで、気持ち悪い。せっかく、メタリアルフィクションな文芸活動が、ギャルゲーマーの活発なパフォーマンスが、エロゲーマーの痛々しい思想活動が、その領域を超えて現実に働きかけ、現実を変えようとしてる。
それは明らかに文化活動であり、具体性を伴う生活権の主張であった。今さら、そんなつもりはなかった、などと言い訳するほうが見苦しい。むしろ非実在青少年周辺の法整備・制度設計を進める方向で、積極的に政治参画していくべきだ。
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